犬を飼うということ

0110月2013

犬を飼うということ

犬を飼うということ

犬は死ぬのが嫌だから飼わないと言う人もいます。それも分かります。死んだときの悲しみはとても重く深くたまらないから。
ある芸能人は、犬は絶対家族ではないと言い切っています。その理由は家族だったら死んだからといって新しい家族を迎い入れることはしないからだと。
もっともらしい理由だがそうでしょうか。
私には大学生の時に飼っていた犬を手放さなければならなかった苦い過去があります。雑種でくる病のため足が外側に曲がっていて、決して見栄えの良い子ではなかったのですが私には天使のような犬でした。飼い主でさえ食べている時に手を出すとカブリと噛みつく癖のある子でしたが可愛かった。母が病気で入院する事になり、私は授業を放り出して面倒を見る事は出来ず、そして人手に渡りました。それ以来、絶対に犬は飼わないと心に決めました。
オースラリアに住む先輩の家に遊びに行っとき、ゴールドコーストにあるその家には大きなゴールデンリトリバーがいました。大人しく躾をよくされたその犬は家族の人気者でしたが、犬を飼ったことがなかった娘は、少しでもその犬が近づこうとするとソファの背もたれの上を逃げ回っていました。
娘は犬を知らない。いや、人間と言う動物しか知らないのです。だからこれ程までに犬を拒絶するのです。このままで良いのかとその時子供の成長に関して不安に思いました。
帰国して暫くそんなことを考えたのち、もう二度と手放さないという覚悟と信念を確認して、我が家に初めての犬を迎い入れたのです。
メスにしては大型のゴールデンリトリバーでしたが、利口で人間の言う事は良く理解し
ました。小さな頃に他の犬に慣らしていなかったので犬嫌いの傾向にありましたが、トラブルを起こすような事もなく、娘と息子はこの犬に育てられたようなものでした。
どこへ行くのも一緒でした。そんな目に入れても痛くないような可愛いジーニーは7歳で急死しました。原因は今だにわかりません。最後はゼエゼエと荒い息を立てながら寝ている私のところに近寄ってきて私の腕の中で息絶えました。
何故、助けてあげられなかったのだろうと暫く自責の念が消えませんでした。他の犬を見れば涙して、暫くはみんなの散歩している場所には近づけませんでした。悲しみは決して消す事は出来ない、ただ時間のみがその悲しみを薄めてくれるのです。そんなとき一匹のブルドッグが私達のそばから離れず、心配そうに顔を舐めてくれました。犬を失った悲しみは犬にしか癒す事は出来ないのです。そして、今度は男の子のゴールデンリトリバーを迎い入れる事にしました。よく、2頭目を飼うと最初の犬と比較してしまうと言う人がいるが、そんな事はありません。一匹一匹性格も違います。兄弟のそれと同じように個性があるし、単純に比較など出来ません。
そしてさらにもう一匹メスのレオンベルガーを迎い入れました。
考えてみれば家族だって離れて行きます。一緒に暮らせるのはほんのわずかな時期だけです。犬だって変わりません。ただ一生が短いから、子供のように思っていても犬達の方が先に年をとります。だから死んだときの悲しみが子供を失ったような気になるのかもしれません。
そんな2匹も13歳と10歳です。先代の倍近く一緒にいることになります。
最近では足腰も悪く、排尿の障害も出始め、ボケも入っているようですが、足を引きずりながらも元気に食事を催促します。
最初の命題に戻ります。犬は家族でしょうか、家族ではないのでしょうか。私にとって家族は必ずしも血縁とは限りません。縁あって一緒になった人や動物も全てひっくるめて家族だと思うのです
遠くの親戚で一度も会った事の無い人より、そうした家族の方に愛着が強いと思います。
愛情を持ってその犬の犬生を寄り添ってまっとうさせてあげる事が出来れば、犬も人間も幸せだと思うのです。だってその人以上に可愛がってくれるところはないのですから。

 


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