演奏者と聴衆

266月2014

演奏者と聴衆

キース・ジャレットのソロコンサートに出掛けました。久々のコンサートでした。ご存知のかたも多いと思いますが、この最終公演の前、大阪でのコンサートで彼は演奏を中断してしまったのです。その場に居合わせていないのでどのようなことが起こったのか定かではありませんが、彼を放心させる何かがあったのかもしれないと思います。
行く前までは、そんな小さなことで目くじらを立てるのは、敷居の高い寿司屋のようで客=聴衆をないがしろにしているのではないかと些か冷めた目をしていました。ところが実際に自分がその場で体験してみると、その浅はかな考えを大いに反省しなくてはなりませんでした。
最初の曲が始まった時に、あまりの硬質な音が私の体を突き抜けました。と同時に察かに自分がいつも聞いている音とは別の種類の音がそこで存在していました。彼のピアノはタッチとかそういう技巧的なものではなく、本質的な音源としてクリスタルのように透明で直線的です。しかしそれだけでありません。彼の演奏は絵画的でもあるのです。朝靄のかかった湖に浮遊し、静寂な湖面にビアノの音だけが流れてきました。別の曲では風にたなびく背の高い青草が優しく足元をくすぐります。そして違う曲では夏の入道雲の湧き上がる空を大鷹になって飛んでいるようでした。
彼は芸術家という言葉を嫌います。その代わり音楽の力を信じるといいます。30代の頃の精力的だった彼のピアは察かに今のそれとは異なっています。どちらが良いとか悪いとかという話ではありません。まるで演奏すること、生きることの怖さを知った思慮がそうさせているように思えてくるから不思議です。そして彼の発する音に対する拘りはさらに深くなってきます。我々の方も彼の演奏に共感するためには努力が必要だと思います。いくらお金を出しているとしても聴衆がその努力をしないなら、どんなに素晴らしい演奏も価値はなくなり、共感できて初めて音楽の喜びがあるのだと知ります。
日本人に限った事ではありませんが、我々は幼い頃より自由と権利を教えられてきました。それは時としてこうした場でも、隠れていた蛇が鎌首を持ち上げる如く、相手に自分の権利を主張する矮小な思想に繋がります。お金を出していれば何をしてもよいというのは思い上がりです。それを言うなら演奏家はお金で呪縛された衆人でもないし、演奏しない自由だってあるのです。
彼は神経質で気難しいと言う人がいます。そうでしょうか。聴衆にコップ持ち上げ「ウォーター」とジョークを言ったり、「ハッピーバースデー キース」と言う人に「誕生日は今日じゃない」と言ってみたり、さらにアンコールを4曲も演奏してくれた事を考えると、大阪では共感できない何かがあったのだろうと考えを改めざるえません。
会場から沸きあがった声援もきっと彼の音楽への愛情の印だったのでしょう。そういう雑音には彼はきっと愛情をもって答えるはずです。「みんな音楽が好きなんだね」と。

 


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